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エッセイ

人生のような音楽、音楽のような人生①

タイトルに「①」なんて付いているからには、この話は何度かに分けて続くのかもしれません。とにかく、思うままに(生存のご報告も兼ねて)、毎日数分の時間を割いて書いていこうと思いついた次第。

作曲家は何を考えて作曲するのか。人によって考え方は様々であるようです。「頭の中に響いているものを書く」というようなことをおっしゃっていたのは菅野よう子さんだったかと思います(たしか、『編曲の本』という A3 版のどでかい本の中で)。それで曲が書ければ、作曲生活はどれほど幸せでしょう。残念ながら、僕はそのような才能に恵まれてはおりません。

美術家の事をどれほどうらやましいと思ったかわかりません。美術家には作曲家との決定的な違いがあります。それは「作品が、なければならない」ということ。わかりにくい話ですね。つまり、絵画にしろ彫刻にしろ、はたまたミクスチャーだろうが立体だろうが、パフォーマンスアートでさえも、作品が目の前に存在していなければならない、と言うことです。何もない空間の前に「無」とかいうタイトルプレートだけ付けて展示しておく、なんていう超前衛的な活動をしている美術家も探せばいそうですが、僕はいまだにそういうものに出くわしたことがありません。

美術と異なる作曲の大きな悲劇は、「何もない」ということが許されることです。ジョン・ケージの例は極端ですが、数十秒にわたって無音で構わなかったり、構成や成形のために最低限必要だと思われるものさえ省略してしまって構わなかったり。今ここに、一人の作曲家と一人の美術家がいたとします。目の前の空間に、美術家はどんなに不安定であっても、どんなに小さくても、またはどんなに臭かったり、まぶしかったりしても、何かを存在させようとするところから活動がスタートするという点に迷いはありません。ところが作曲家は、何もないことにするか、何かあることにするか、そこから迷い始めなければならないのです。

「人生のような音楽、音楽のような人生①」への4件の返信

時間ができたら、そんな話でもしながら飲みましょう。
今年も忙しい中、お世話になります!

コメントありがとうございます。
正直なところ、今年は本当に自信がないです。
できるかできないか、運次第です。

私は、作曲とゆう作業は夜空のまだ見つかっていない星を見つけるようなものだと考えています。天文学者がいくら「これは、私が発見した星だ!」と言っても、その人が見つけるずっと前からその星は存在していたんです。同じように曲とゆうものは、作曲家が作曲する前から聴衆(自分を含めた人間)のなかに存在しているんだと思うのです。そうでなければ、全く音楽教育を受けていない人はモーツアルトを聞いても全く何も感じないとゆうことになります。そう考えると菅野よう子さん(存じ上げませんが)もジョン・ケージも納得できます。とは言っても、今まで発見されていなかった星を見つけ出すのは容易ではありません。しかし、子犬が、子猫が、かわいいと思う感情が芽生えるように、人の心の中に人間にしか理解できない、リズム、メロディー、ハーモニーとゆう感覚がいつからか生まれます。私は、その中にもう未来の名曲が隠れて(宿って)いるんだと思っています。本人はそのことを作曲家が発見し、それが演奏されるまで気づきません。いや、自分の中に宿っていたとは思わないでしょう。でも、確かに宿っています。だから、モーツアルトが、ビートルズが現代の人々に受け入れられるのだと思うのです。

西浦達雄さん、はじめまして。コメントをありがとうございます。
音楽に絶対的な美とか価値がある、ということでしょうか。
実際、どうなのでしょうね。

正直にいえば、私はそのようなものがあってほしいと願っているところですが、
現実には聴き手ごとの好みの違いもあり、
残念ながらそうもいかないのかな、と思っています。

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