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日記

日立のおばあちゃん②

祖母は苦労の多い人生を歩んだ人でした。祖母は香川県の生まれで、旧姓による名前を多田利子と言いました。大正の生まれではありましたが、女学校に通っていたようで、当時としては裕福な家庭に育ったようでした。

対する祖父は、非常に家計の苦しい家庭に育ったようです。授業料がかからないという理由で師範学校(現在の教育大学)に進み、京城(現在の韓国・ソウル)で教鞭をとっていたようです。しかし、すでに日米が開戦していた当時、祖母の実家の両親は、戦地に駆りだされることのない教師のもとに嫁がせたいと願ったようです。

祖父の実家と祖母の実家にどんな接点があったのかまったくわかりませんが、かくてまだ十代だった祖母は、かなりの「格差婚」の末に朝鮮半島に渡り、教員の宿舎で生活することになったようです。生前の祖母は、たまに朝鮮人に対する複雑な感情を垣間見せる言動をとることがありましたが、僕が小学生の頃、韓国に住む韓国人の友人から日本語の年賀はがき(か何か)が届いて喜んでいた姿もまた覚えています。あの時代、日本人と朝鮮人の関係というものは、実際どうなっていたのでしょうね。

つづくでしょう。

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エッセイ

日立のおばあちゃん①

僕の母方の祖母は、僕が中学三年生の頃に亡くなりました。

母の実家は、長い坂道を登りきったところに建っていました。家の南西側にある駐車場と母屋との高低差は 10m 近くあり、車を降りたあと長い階段を登らねばなりませんでした。玄関は東側にあるのですが、駐車場から遠いので、僕たちは母屋の南側にある縁側から出入りしていましたし、祖母の家族もみなそのようにしていたようでした。

雨よけと下駄箱が用意されて、玄関さながらになっているその縁側から家に上がり、四畳ほどの小部屋を抜けると、その奥に六畳の和室がありました。祖母はいつもその部屋にある掘りごたつに座って、僕たちを出迎えてくれました。

僕の祖母には脚が一本ありませんでした。僕が生まれた頃、祖母が路線バスに乗ろうとしたところ、運転手さんが私の祖母に気づかずドアを閉めてしまい、バスの外に投げ出されたところでそのバスが発進し、祖母の脚を轢きつぶしてしまったそうです。

その運転手さんがその後どうなったのか、僕はよく覚えていませんが、祖母は警察からの事情聴取に応じた際に、運転手さんの事を赦すと伝えたのだそうです。祖母はそういう人でした。

つづくでしょう。