さっぱり涼しくなりませんね。今年の 4 月 25 日のブログをいまさら書いていたのですが、そう言えば今年の春は寒かったですね。もうすぐ 5 月なのに霜がおりていました。もう日本に春と秋は無くなったのでしょうか。

今日のお昼はマーボー茄子をつくりました。
最近、すっかり地球温暖化懐疑論を聞かなくなりました。猛暑のなかにあってなお「地球は寒冷化している!」とか「地球温暖化は間違いだ!」という主張をする人がいれば耳を傾けてみたいのですが、どうなんでしょうか。
しかし、「温暖化対策のために原子力を有効活用しよう!」「反対する人は電気を使うな!」という意見には疑問符が。万が一事故が起こった場合に、原子力反対の人に一切放射能汚染の被害が及ばないようにしてくれるなら、上の主張も受け入れる余地があるけれど、東京に電気を送るための原発を抱える福島に住んでいる僕に、そんなこと言われてもなあ。
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タグ: 原子力, 地球温暖化
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というのは、僕が最近家庭教師先の生徒たちから対戦を申し込まれるカードゲーム。昔、ログインと言うパソコン雑誌に『マジック・ザ・ギャザリング』というゲームの案内が連載されていましたが、あれの後継ゲームのようです。
もちろん僕のような大人でプレイしている人は少ないのですが、今の小学校高学年~高校生にはすさまじい人気があって、どの家庭に行っても必ずデッキ(試合用のカード・セット)が見つかります。
このデッキの名前が、たとえば『ヘヴィ・デス・メタル』とか、『マッド・ロック・チェスター』とか…おや?どこかで聞きおぼえのある名前じゃありませんか?

休憩時間に対戦しているところ。相手は小学六年生、僕の使用デッキは『マッド・ロック・チェスター』。この写真の状況では僕が優勢。
いまだに子供たちの繰り出す未知のカードに翻弄されている僕ではありますが、最近ではかなりの猛者相手にもそれなりに戦えるようになってきました。戦略性の高い、面白いゲームではあります。
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タグ: カードゲーム, デュエル・マスターズ, 対戦
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この日は会津若松市内のとある小学校で、吹奏楽の指導をしました。9 回目にあたる今回の指導のテーマは強弱。前回の指導ではクレッシェンドとデクレッシェンドについて学習してもらいましたので、その続きです。
相変わらず先生方の指導が熱心なので、子どもたちの上達が早いです。

パティスリー白亜館のケーキセット
練習後は先生や楽器のコーチの方々と一緒にパティスリー白亜館でケーキをいただきました。このお店はモデルルームを改装して作られたのだそうで、僕らが通された部屋は子供部屋だったところ。家庭教師の血が騒ぎましたが(?)、落ち着いた店内でゆっくりとケーキをいただいてきました。

1F にあった風変りな招き猫。
僕の実家の「ジュリアーノ」と同族だろうと思われる、エキセントリックな招き猫をこのお店でも発見しました。これで僕が見つけたのは三匹目です。
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僕の父は現役時代、家電メーカーの研究所に勤務していました。あるとき、父が一生懸命図を書いているのを見かけたので、何の図かと尋ねたら、「冷蔵庫の暖房だよ」と。
なぜ冷蔵庫に暖房なんて必要なのかと尋ねたら、「だって、冷蔵庫の表面が冷たかったらあたり一面びちゃびちゃになっちゃうでしょ?だから中を冷した分だけ、冷蔵庫の外側は暖房を入れなきゃいけないの」。そういえば、まったくそのとおりなのですが、しかし冷蔵庫と言うのはなんと環境に優しくない家電なのだろう!と思ったのでした。
そんな話があったことを今日、冷蔵庫のとなりに置いてあったコーヒーミルクが温まっていることに気づいて、思い出したのでした。
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祖母は苦労の多い人生を歩んだ人でした。祖母は香川県の生まれで、旧姓による名前を多田利子と言いました。大正の生まれではありましたが、女学校に通っていたようで、当時としては裕福な家庭に育ったようでした。
対する祖父は、非常に家計の苦しい家庭に育ったようです。授業料がかからないという理由で師範学校(現在の教育大学)に進み、京城(現在の韓国・ソウル)で教鞭をとっていたようです。しかし、すでに日米が開戦していた当時、祖母の実家の両親は、戦地に駆りだされることのない教師のもとに嫁がせたいと願ったようです。
祖父の実家と祖母の実家にどんな接点があったのかまったくわかりませんが、かくてまだ十代だった祖母は、かなりの「格差婚」の末に朝鮮半島に渡り、教員の宿舎で生活することになったようです。生前の祖母は、たまに朝鮮人に対する複雑な感情を垣間見せる言動をとることがありましたが、僕が小学生の頃、韓国に住む韓国人の友人から日本語の年賀はがき(か何か)が届いて喜んでいた姿もまた覚えています。あの時代、日本人と朝鮮人の関係というものは、実際どうなっていたのでしょうね。
つづくでしょう。
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タグ: 日立のおばあちゃん, 祖母
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僕の母方の祖母は、僕が中学三年生の頃に亡くなりました。
母の実家は、長い坂道を登りきったところに建っていました。家の南西側にある駐車場と母屋との高低差は 10m 近くあり、車を降りたあと長い階段を登らねばなりませんでした。玄関は東側にあるのですが、駐車場から遠いので、僕たちは母屋の南側にある縁側から出入りしていましたし、祖母の家族もみなそのようにしていたようでした。
雨よけと下駄箱が用意されて、玄関さながらになっているその縁側から家に上がり、四畳ほどの小部屋を抜けると、その奥に六畳の和室がありました。祖母はいつもその部屋にある掘りごたつに座って、僕たちを出迎えてくれました。
僕の祖母には脚が一本ありませんでした。僕が生まれた頃、祖母が路線バスに乗ろうとしたところ、運転手さんが私の祖母に気づかずドアを閉めてしまい、バスの外に投げ出されたところでそのバスが発進し、祖母の脚を轢きつぶしてしまったそうです。
その運転手さんがその後どうなったのか、僕はよく覚えていませんが、祖母は警察からの事情聴取に応じた際に、運転手さんの事を赦すと伝えたのだそうです。祖母はそういう人でした。
つづくでしょう。
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タイトルに「①」なんて付いているからには、この話は何度かに分けて続くのかもしれません。とにかく、思うままに(生存のご報告も兼ねて)、毎日数分の時間を割いて書いていこうと思いついた次第。
作曲家は何を考えて作曲するのか。人によって考え方は様々であるようです。「頭の中に響いているものを書く」というようなことをおっしゃっていたのは菅野よう子さんだったかと思います(たしか、『編曲の本』という A3 版のどでかい本の中で)。それで曲が書ければ、作曲生活はどれほど幸せでしょう。残念ながら、僕はそのような才能に恵まれてはおりません。
美術家の事をどれほどうらやましいと思ったかわかりません。美術家には作曲家との決定的な違いがあります。それは「作品が、なければならない」ということ。わかりにくい話ですね。つまり、絵画にしろ彫刻にしろ、はたまたミクスチャーだろうが立体だろうが、パフォーマンスアートでさえも、作品が目の前に存在していなければならない、と言うことです。何もない空間の前に「無」とかいうタイトルプレートだけ付けて展示しておく、なんていう超前衛的な活動をしている美術家も探せばいそうですが、僕はいまだにそういうものに出くわしたことがありません。
美術と異なる作曲の大きな悲劇は、「何もない」ということが許されることです。ジョン・ケージの例は極端ですが、数十秒にわたって無音で構わなかったり、構成や成形のために最低限必要だと思われるものさえ省略してしまって構わなかったり。今ここに、一人の作曲家と一人の美術家がいたとします。目の前の空間に、美術家はどんなに不安定であっても、どんなに小さくても、またはどんなに臭かったり、まぶしかったりしても、何かを存在させようとするところから活動がスタートするという点に迷いはありません。ところが作曲家は、何もないことにするか、何かあることにするか、そこから迷い始めなければならないのです。
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