日本人はもともと合奏音楽の歴史が浅く、「合わせる」ということがどうも得意ではない。これは単に音楽の面だけではなく、一般社会生活の上でも共同作業が下手で、どうもスタープレイをしたがる国民であるようだ。

秋山紀夫(音楽之友社『最新吹奏楽講座 4 合奏の技術』p.5 より)

一口に日本人といっても、その性格や行動はさまざまです。しかし、僕自身に関して言えば、共同作業が下手であることや、スタープレイをしたがることに関して、上のように指摘されれば、「ああ、そうだなあ」と思える点が多々あります。

僕の場合、スタープレイをしたがる前提として、自分を特別扱いしたがる思想があったかと思います。僕が中学生だった 1990 年代前半、まだ世間には男尊女卑を疑いなく受け入れる風潮がありました。僕が土浦第五中学校時代に吹奏楽部の部長に選ばれた理由は、単純に僕が「男だから」だったと記憶しています。

その後高校・大学と、僕の入学先にあった吹奏楽部は、不幸にしていずれも創設直後の不安定な時期にありました。人手不足の中で、部長の経験者だったことや、指揮者の講習会に参加していた事などを買われて、行く先々で重要なポストをあてがわれました。僕の特別意識はいよいよ高まっていくことになりました。

こうして形成されていったのが、口ばかり達者で現場の実態を知らない「無能な指導者」でした。自分の無能さが楽団の士気を下げる要因になっているにもかかわらず、一方的にそれは個々のメンバーの責任だと断じて、楽団を飛び出していったのが大学 3 年生のころでした。

そんな僕も、社会人のバンドやプロのプレイヤーにもまれて、まさに井の中の蛙が大海を知ったような状況になってはじめて、自分の未熟さをようやく思い知らされました。今までうまくできなかったけれど、部長や指揮者としてでなく、一般の吹奏楽団の先輩としての責務をきちんと果たすべきだ、と思うようになりました。

ちょうどそのころ、大学に新たなサックスパートの後輩が 4 人入ってきました。僕は派手に留年しましたが、その夏には卒業することが確実になっていましたから、自分の学生時代の最後に懺悔を実践する対象を得たと感じて、嬉しくなりました。

練習に関しては個人主義的だった僕が、パートのメンバー全員による練習、いわゆる「パー錬」を積極的に実施するようになりました。僕らの「パー錬」は、当時 3 年生だった後輩と先述の 1 年生 4 人、それからフルート、バスクラリネットの 1 年生 4 人の計 10 人で行われました。一緒に活動できたのは実質 3 ヵ月程度でしたが、あの時期ほど吹奏楽を楽しいと感じたことは、ありませんでした。

その後輩たちがこの日、卒業式を迎えました。まったく、いつだって時間というものは思ったよりも短い。仕事の都合で駆けつけるのが遅くなってしまいましたが、好運にも助けられて、なんとかほぼ全員と顔を合わせることができました。僕の吹奏楽生活の最後に、一瞬だけ黄金時代をもたらしてくれた 10 人の「パー錬」仲間を、僕は忘れることはできません。月並みですが、ほんとうに、ありがとう。

その中の一人から、「工藤先輩がいるから、今の吹奏楽団があるんです」という趣旨の事を言われました。僕の見る限り、それは僕の卒業後の在学生たちの活躍が素晴らしかったからだと思うのだけれど、もし僕がなにがしかの貢献をしたと感じたとしても、そんな「工藤先輩」が形成されたのは、皆さんとの出会いがあったからに他ならないのです。


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