軽々しく課される夏休みの宿題

昨秋も『整理と研究』に関する問題について書きましたが、今年もまた多くの中学校で、この本が夏休みの宿題になっています。この本自体は良くできているのですが、問題はその課題の出し方です。『整理と研究』の 1~2 年生の範囲をすべてノートに解いて提出しろ、というふざけた課題を出す中学校が後を絶ちません。真面目にやると問題集のページ数でざっと 400 ページ程度になります。夏休み中、ほぼ一日 10 ページのペースで解き続けなければ終わらない量です。

この宿題の出し方が、生徒個々の事情をまったく考慮していない馬鹿げたやり方だと気づかない先生があまりにも多いことが、僕は残念でなりません。この本には、難易度別に「基本問題」「A 問題」「B 問題」が掲載されています。生徒の学力別にこれらの問題を見ていくと、下表のようになります。

偏差値 基本問題 A 問題 B 問題 1~2 年生の範囲をすべて解き直すことによる効能
68~ 簡単すぎて時間の無駄 簡単 やや簡単 いたずらに時間を浪費させて、むしろ成績を下げてしまう。実際の入試問題で高得点を狙うには、量を多くこなすことも重要であり、B 問題を何度も解いても時間の無駄。
60~67 簡単 やや簡単 ちょうど良い 最も効果が上がる成績帯、おそらくこの本のターゲットはこのあたり。
52~59 やや簡単 ちょうど良い やや難しい ある程度効果が上がるが、B 問題は自力では解けないし、このぐらいの成績では解答・解説も理解できないので、親などの手助けが必要。親が子供の勉強を解さない家庭では、宿題の達成は絶望的となる。
44~51 ちょうど良い やや難しい 難しい 基本問題以外は自力ではほとんど解けないし、解答・解説も理解できないので、つきっきりでみていてくれる人がいない家庭では、宿題に出すだけ無駄となる。
~43 やや難しい 難しい 絶望的 この成績帯の子は、『整理と研究』の解答をノートにうつす作業だけで、夏休みが終わる。このような宿題を出してはならない。

偏差値 60~67 以外の生徒に、この本をすべてやってくるように宿題を出すのは間違っていると思います。52~59 の子には出しても良いですが、B 問題は飛ばしても良いという注意書きを添えるべきでしょう。それ以外の偏差値帯に分布する生徒には、即刻、夏休みの課題として課すことを中止すべきです。

成績別に違う宿題を出せばよいのかというと、これもまた難しい問題です。一人一人の生徒は、教科別に成績が異なりますし、毎回テストごとに成績は上下しますから、正確な実力を数値化する作業も割と骨が折れます。さらに、特定の単元だけが苦手な生徒というのも多く、たとえ偏差値が 70 近い子でも、基本問題からしっかりとやりなおした方がいい単元もあったりします。

どうしてもこのような宿題を出したいなら、宿題の成績への反映のさせ方を工夫するべきでしょう。宿題を出さなくても減点せず、宿題を出した場合には何かのテストの成績が悪かった時に加点の材料とする、ぐらいの扱いがちょうど良いでしょう。とてもそんな複雑な成績の管理方法はできない、というのであれば、やはり即刻このような宿題は廃止すべきです。

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日記

先生

ジャズ・カフェ・ミンガスにて、先生の誕生日パーティー。この数時間後に誕生日を迎えられました
ジャズ・カフェ・ミンガスにて、先生のお誕生日パーティー。この数時間後に誕生日を迎えられました

人が後悔するときというのは、過去の自分の未熟さに気づいたときで、それは多かれ少なかれ自身が成長したことの証でもあります。「後悔しないようにしろ」というのは「自分の未熟さに気づけ」という意味だし、「後悔なんかしていない」と言っているうちは、ひょっとすると自分が成長していないだけなのかもしれません。

大学の二年目ぐらいまで、僕はほとんど後悔するなんていうことを知りませんでした。変な自信とプライドばっかりが育っていて、大した知識もないのに偉そうな顔で他人を批判して悦に入っていたのだから、これほど厄介な人間はありません。当時の知り合いで今でも僕と付き合ってくれる人がいるのが、信じられません。

それが突然後悔の雨あられにさらされるようになったのは、大学 2 年生の時に T 先生と巡り合ってからでした。東京大学の大学院を卒業した先生はまだ若かったのですが、たいていのことには冷静で、いつも論理的に物事を考え、それでいて他人に対する優しさや思いやりを忘れない立派な方でした。かとおもえば授業を休んでその受講生全員と花見に行ったり、ユニフォームを着てビール片手に阪神タイガースを応援したりする一面も持っている方でした。たまたまそんな先生のゼミ生になって、立派な大人とはかくあるべきなのだなと思い初めて以来、僕の生まれて初めての種類の「後悔」が始まったわけです。

先生が僕に「後悔」をさせるとき、それは面と向かって僕を批判するようなやりかたではなくて、いうなれば知性が伝灯してゆくというか、授業の場にいるだけで勝手に「後悔」が募ってゆくような毎日でした。今まさに人生のあらゆることに悔いを感じて、同じ過ちを繰り返さないよう自省できるようになったのは、先生のおかげです。

間もなく僕も、初めてお会いした時の先生と同じ年齢になります。少しでも当時の先生のようになれるよう努力しているのですが、さっぱり間に合うような気がしません。そして今日、不惑を迎えられる先生の誕生日パーティーに、各地に散らばったゼミの卒業生が多数集まっている様子を見て、先生がさらに高いハードルの向こう側にいることを痛感しました。

幸い家が近く、今でもお会いする機会があります。先生がいらっしゃる限り僕の「後悔」が終わることはないでしょうけれども、それは僕にとって大変な幸せです。願わくはながくご健康に留意され、とりわけ先生の肝臓が「フォアグラ状態」を脱されますように。